問6 ダンテはどうして「ラテン語」を用いて『俗語論』を書き、「俗語(イタリア語)」を用いて『神曲』を書いたのかについて、読者や内容の観点から考えて論じなさい。
中世のイタリアにおいて著作物は一般的にラテン語で書かれるものとされていた。この点においてダンテが『俗語論』をラテン語で著したことについては特に違和感はない。一方で『神曲』が俗語で書かれたことについてより注意を払う必要がある。
『俗語論』で注目するべきことを二つ挙げたい。一つ目は「ラテン語」を解する読者に対して「俗語」を論じていることである。当時の俗語はラテン語に対して低くみられる傾向があり、主題として選ぶことは新奇といえる。二つ目はこの社会的通念に反して彼は俗語を「より高貴 noblior」であると述べていることである。「俗語」は人類にとって原初の言葉であり、発音や語彙が異なっているとしても世界中で用いられ、自分たちに自然に響くことをその理由として挙げている。
『俗語論』は未完ではあるがダンテの意図することはそこに見ることができる。彼はその中で「輝かしい俗語 vulgaris illustris」を見つけることを目的に置いている。彼はヨーロッパの各地方の俗語を挙げ、イタリア語をその話題の中心に据える。イタリア語の各方言を吟味した上でそこに「輝かしい俗語」にふさわしいものが見当たらないとし、思弁的にそれを見つける必要があると主張する。そして、それは詩人が詩作を通して実現できうるものであることを論じている。
当時の社会では教会から俗世の教育機関へと知の中心が移動する世俗化が見られ、文芸においても俗語を用いる機運はあった。その方法論を『俗語論』を通して試行し続けたダンテは「知」と「魂の救済」と「恋愛」の詩を『神曲』において俗語で実現することになる。実際のところベアトリーチェへの二人称での賛辞は当時の読者にとって自然に受け止められたことだろう。
『俗語論』では「文法 gramatica」の必要性も語られている。場所や人によってその形を変えてしまう俗語に規範を与えるのが目的である。『神曲』は後世のイタリア語の成立に非常に大きな足跡をのこしている。主人公ダンテを導くラテン語詩人ウェルギリウスは道先案内人である一方で、ラテン語のもつ規範をイタリア語に与える象徴だったと考えられないだろうか。
『薔薇の名前』における笑いについて
笑いとは他者との知識の差から生じるものである。喜劇においてはその主人公の無知からおこる出来事を、観衆はその無知ついての知識をもっているために笑うのである。お互いが同等のあるいは尊敬し合えるだけの知識をもっていると信じる相手には笑いかけることができるが、自分より多くの知識を持っている相手に笑うという状況はかなり限られてくる。
この小説のなかでは笑いに対して各所に言及がみられる。そのなかでも重要なものとして、ホルヘによる笑いを禁忌とする発言、アドソの夢にでてくる数々の喜劇的な出来事とそれに対するウィリアムの解釈を挙げたい。
写字室での笑いを盲目の老修道士ホルヘが以下のようにたしなめる。
虚しい言葉や笑いを誘う言葉は口にしてはならぬ。Verba vana aut risui apta non loqui.
物語の終盤にはこの言葉の意図することが明かされる。それは笑いには主従関係の逆転させる力があり、知識や権力についても逆転がおこり教会による支配構造が崩れることが危惧されるというのだ。このような一般信者に笑いを正当化させる書物を図書館の奥に隠している小説の舞台である修道院は中世のキリスト教、とくにカトリック教会を象徴しているように描かれている。教会が一般信徒に対して笑わないこと、知識を求めないこと、教会を恐れ教会に服従することを求めていたことがここから理解できる。
この結果、中世の終わりには宗教改革とルネサンスによる大きな社会変動が起こる。教会の権威が届かない少人数の集まりや、暗闇の中で漏れ聞こえていた笑いがおさえきれなくなる直前の時代がこの小説では描かれていると思われる。